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2009年 3月 12日

子孫に美林を残す。

今日は祖父の命日です。
以前ご紹介したおじいちゃんの木がある山へ行き、「老松」という日本酒をかけ祈りを捧げて参りました。
また本日は、企画に参加させていただいた「もくたろ」という雑誌の創刊日でもあります。
(木の家にスポットをあてた雑誌で、32頁に亘る「筑後川」特集をぜひご覧いただきたいと思います。)
せっかくのメモリアルな日ですから、「木挽棟梁の木を活かす知恵」というカテゴリーをつくり、
これまで講演などでお話ししてきたことなどを、文章化していこうと思います。

 
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1.子孫に美林を残す
 祖父は自他共に認める山好きな人でした。
幼少の頃の休日は、朝5時頃起床で山に連れて行かれました。
せっかくの休みなのに、早朝に起こされるので、友達と遊べません。
山に行く前の日は、億劫でたまりませんでした。
でもいざ着いてみると、木立に差込む光、冴え冴えとした空気。
鳥の鳴き声に虫の音。小川の水は冷たく甘い。
カサコソと野生動物の気配を感じては、猪、鹿、兎、雉と出会う。
昼飯が近くなれば小枝を探し、鉈でお箸を作り、母のにぎり飯を堪能。
結構楽しい思い出ばかりです。
山遊びがほとんどでしたが、少しは仕事にも貢献しました。
「よ~ぃっ!」と呼ばれると、声のする山師さんの下へ、
水筒や機械油を走って運んだものです。
 
祖父は60歳のころ(私が生まれた時期)から禿山を買い始めたと聞きます。
第二の人生として、そこに植林していくことをライフワークとしたようです。
山が道楽だったのでしょう。
仕事がなくても山に行っては、立木に尺を回し、
太ったな、伸びたな、と目を細め私にこう言いました。
  
「おまえが俺ん歳になりゃあ、こん木も、えらいもんになっちょるざい。」
 
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(朝倉市内にある所有林。50年前、自宅を建てる際に伐採し植林された杉山。
 祖父が若い頃初めて購入した山でもある。)

 
 祖父が「山好き」ならば、父は「木好き」と言えるかもしれません。
父は銘木と呼ばれるような大木を全国から買い集めてきました。
国鉄(当時)の貨物列車でやってきた、天竜や吉野の山からの巨木は雪が被っていました。
家と同じ敷地内にある土場(どば)には、私の背丈を凌ぐ直径をした丸太が並び、
大木がまるでピラミッドのように、うず高く所狭しと積んでありました。
自宅は木組と土壁の和風建築。
そこに使われた木材は、自分の山のスギの木を伐り用立てたといいます。
建てた翌年に植林しているので、その山の木の樹齢と家の年齢はほぼ同じです。
ちょっと古くなってきた家の木と、生き生きとした山の木は不思議な対比です。
まあこのように、どこにいても木に囲まれた幼少期を送りました。
 
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家業がある家の長男に生まれた人間は、継ぐかどうかプレッシャーを受けながら育つものです。
大学を出ると私は、継ごうとはせず印刷会社に就職し5年働きました。
でも木に囲まれた幼少期を送ったからでしょうか。
入社して4年目、印刷物の仕事だけにとどまらず、クライアントに木造建築を提案しました。
企画としての評価は受けたものの、建築まで請負うことはできません。
このころから、建築企画という仕事への思いが日に日に強くなりました。
経済学部出身の私は、生い立ちから縁のある木を武器に、
建築に関わってみたいと思うようになり決断します。
 
28歳のとき、父は継げと言いませんでしたが、会社を辞め跡を継ぎました。
とはいっても、当時は痩せていて体力もなく、木の知識もない。
工場の仕事はきついだけで、自分に向いていないと後悔ばかりしていました。
さらに製材業は斜陽産業です。
私の地域の製材所は最も多いころから5分の1に激減しています。
ビジョンが見いだせないまま、先の見えない不安に押し潰されそうでした。
最近になってようやく、そのころのことが笑って話せます。
それでも、「子孫に美林を残せるか」と聞かれたら… 
 
なかなか肯定的な返事をすることはできません。
山を維持するには、長い年月の管理が必要ですし
経済的にも時間的にも、私の代でさえ難しいと感じているからです。
それでも私は、祖父を真似てみたいと思うようになりました。
木に目を細めた祖父の眼差しを忘れたくないのです。
  
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・40年前の祖父と私

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