アーカイブ 「木造建築の味覚」

2020年 7月 29日

方丈板倉 斎(さい)とは

この度、自社敷地内に「方丈板倉 斎」をつくります。
土用が明けた立秋の8月7日(金)に棟上げします。
なぜ「斎」をつくるのか、趣旨については頁を改めます。
以下、考案者 安藤邦廣氏による「方丈板倉 斎」の趣旨です。
ご一読いただけましたら幸いです。
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方丈板倉 斎(さい)
危機を生きのびる想像力、新たな生き方とすみか
安藤邦廣
建築家 日本板倉建築協会代表理事 筑波大学名誉教授
2020年6月5日

人類は生きのびるために大きな転機にさしかかっている
急速に拡大してきた大都市への集中から山野田園への分散が今始まる
それは密集閉鎖居住から分散開放居住への転換でもある
20世紀末から日本列島は地震、津波、噴火、台風、洪水と度重なる
災害に見舞われている
その度に人と財が大都市へ集中することの危険性は指摘されてきたが、
その拡大に歯止めがかかることはなかった
大都市への致命的な打撃とはならなかったからである
しかしながら新たな感染症の脅威は地球上のすべてに平等に降り注ぎ
むしろ大都市に容赦ない大打撃を与えた
いまこそ大都市集中に歯止めをかけ分散居住を進めるときである
その確かな第一歩として小屋、斎(さい)をつくり始める

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず(方丈記より)
斎(さい)とは、ものいみ ある期間、食や外出などをつつしみ、
心身を清めることおよびそのへやの意味なり
斎(さい)は母屋を補い
あるいは働くために
あるいは楽しみのために
あるいはひきこもるために
あるいは災難から身を守るために
あるいは祈りと安らぎのために
母屋と離れてあるいは庭先にあるいは山中にあるいは海辺に建つ
その土地にあわせて容易につくれるよう
どこにでもある運ぶに軽いスギ材をもってつくり
組み立て解体自在な板倉構法となす

その大きさは方丈(3m 四方)
屋根は茅であるいは樹皮であるいは土で葺く
その姿は里山のごとし
淀みに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしなし
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし(方丈記より)

 今から800年前、平安時代の終わりの頃、京の都は地震、台風、
竜巻、大火、飢饉と度重なる災難に襲われ、400年間にわたって
繁栄した平安京はあっけなく崩壊した。その有様に無常を感じた
鴨長明は京都南部の日野山中に閑居隠棲して方丈記を記した。
その閑居が一丈四方であったことにその書名の由来がある。
自ら作事したこの小さなすみかに、長明の無常観と生き様が見事に
表されている。
 それから400年後の戦国時代、再び動乱の世の到来で、千利休は
四畳半、小間の草庵茶室を考案し、戦乱で荒廃した社会と人の心に
救いと安らぎを求めた。その草庵茶室は数寄屋造りとしてその後の
日本家屋の原型となった。
 それからさらに400年が過ぎ、ふたたび大地震と大津波、台風と
洪水と度重なる災害に加えて新たな感染症の脅威にさらされている。
今こそ我々はこれらの先人の知恵に学び、新たな生き方とすみかを
想像しなければならない。
 方丈板倉斎(さい)はその小さな一歩であるが、大きな危機を生き
のびる想像力を呼びさますであろう。

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2018年 7月 24日

明日、手放したくない木を納品します

 
明日、手放したくない木を納品します(笑)
写真は150年ほどの杉の木で、元の直径が1350㎜くらいありました。
それを半割して芯の部分を除いた盤木です。
お寺の本堂の向拝(ごはい)という場所の海老虹梁(えびこうりょう)という部材に用います。
裏にも節はあまりありません。
この木は、祖母と尊敬する伯父の遺骨が眠るお寺に嫁ぎます。
嫁ぎ先として最高の場所だと思っています。いつでも会いに行けますし。
先人の育てられた労苦のうえにおいて今の私の仕事は成り立っている、とつくづく思います。有難いです。
 

尚、もっと目詰まりの銘木は吉野などに行けば多々あると思います。
その点で言うと、吉野などの木を見慣れている人には目粗だと感じられるかもしれません。
私にとって、この杉が好きなところは最初の30年くらいで直径一寸五分(45ミリ)しか幹がないのに、
そこから急に年輪幅が大きくなって、切られるまで年輪幅がほとんど変わらない。
150年生きていても旺盛な生長を見せる、木の生命力のようなもの、勢いを感じさせるところです。
自分もこうありたいな、と思うのです。
材質においても、九州の杉という感じです。
春目(早材)の繊維がつまっていて、秋目(晩材)との比重の差が少なく、均質な材質で、反りや狂いがありません。
色もご覧の通りよくて心材の初期含水率が低いのです。
九州杉の在来品種メアサ系の杉で、私はもっとも好んで使っています。
立ち姿の写真のないところが残念です。
このような木は、そんな履歴が必要だと感じます。森の物語を語らねばなりません。

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2018年 4月 23日

普請文化フォーラム2018


なぜ、伝統建築の工匠の技がこれからも必要なのか。
それは、日本の風景、街並みをまもっていくためにあると私は考えます。
たとえば今や珍しい茅葺き民家、文化財として守られているものは全国に3000棟ほど。
しかし、現存するものは10万棟もあります。
瓦屋根の古い民家になると、その数は桁が違ってきます。

日本の原風景ともいえる家並みには、
国指定重要文化財など公費が投入される建物は一部しかありません。
街並みを形成しているその他多くの民家は、所有者の自費によって維持されています。
そして、それらをまもっているのが、その地域にいる家大工をはじめとる職人たちなのです。
とろこが近年、高齢化が急速に進んでおり、後継者も激減しています。
このままでは、日本の原風景が維持できなくなってしまうのではないかと危惧されています。

この度「伝統建築 工匠の技」がユネスコ無形文化遺産の候補となりました。
それは大変喜ばしいことですが、対象が文化財などの保存技術に限られたものとなっています。
そこで、もっと多くの職人たちの技術にその対象を広めていこう。
この運動をもりあげて、もっと後継者が増えるような運動にしよう、ということで、
今週末4/28の普請文化フォーラムは企画されました。
1000人収容できる大きな会場でのフォーラムです。
日本の風景をまもることにご賛同いただける皆様、ぜひともご参加をお願いいたします。
 
この運動が立ち上がった当時の記事
「住いのモノサシ31 文化遺産~伝統木造技術を守れ」
もよろしければご高覧ください。
 
「普請文化フォーラム2018」
日時:2018年4月28日(土)13時〜16時半(受付開始12時/開場12時半)
場所:明治大学アカデミーホール
住所:東京都千代田区神田駿河台1-1 明治大学駿河台キャンパス アカデミーコモン内
参加費:一般;1,000円(事前振込)学生;無料

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2015年 11月 20日

住まいのモノサシ㊳「室町時代」加工発達 マツ主役に

今年の4月、設計者の丹呉明恭さん、大工の池上算規さんと一緒に大阪府、兵庫県を旅した。
来年おそらく実現されるであろう、新築の茅葺き民家をつくる構想のためだ。
今回の二つの千年家の写真はそのときのもの。
この日は小野市にある、重源創建の浄土寺も訪れた。
浄土寺は檜普請なので、クリ、マツ、ヒノキの建築を一日で見て回ったことになる。
 
重源による東大寺の復興は、
建久元年(1190年)に上棟、建久6年(1195年)に大仏殿完成。
東大寺南大門は正治元年(1199年)復興。
浄土寺は建久年間(1190年~1198年)の創建であるから、
浄土寺のヒノキも、山口の徳地のものではないかと推測している。
ご存じの方は教えてください。


 
小野市浄土寺 板倉の建物

 
南面した柱の大節

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2013年 10月 31日

170年生日田杉の嫁ぎ先


 
先月、170年生の日田杉とのご縁をいただきました。
7m 末口74㎝ 枝打ち材 昨年末の寒伐り材です。
無事に嫁ぎ先が決まり、先週末、建て主の立会いの下、製材をさせて頂きました。
 

5m × 12㎝ × 36㎝の柾目の梁が4本。
 

中径で70㎝を超える無節の板が2枚とれました。
 
本当に素晴らしい杉の木でした。心より感謝いたします。

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2012年 4月 05日

日土小学校を訪ねて

カテゴリー 木造建築の味覚


10日ほど前のこと(2012年3月25日)になりますが、
愛媛県八幡浜市にある日土小学校を見学してきました。
日土小学校は、近代建築(モダニズム建築)の保存と記録を目指す
国際組織DOCOMOMOの「DOCOMOMO Jpan20選」に選ばれた唯一の校舎です。
以下の文章は、見学した際知り合った、この建物の保存運動にご尽力された方から
今後の保存運動のためにもコメントを、と依頼され書いた感想文です。
この建物の存在を一人でも多くの人に知ってほしいと思いましたので、
久しぶりにブログへアップすることに致しました。
 
@@@@@@@@@@@
私が日土小学校の存在を知ったのは2005年。
福岡県小郡市で開催された「木の学校づくり」講演会でのことでした。
主催は地元建築士会有志による木造校舎の研究グループ。
近隣の中学校改築計画に端を発した集まりだったと記憶しています。
講演者は筑波大学の安藤邦廣教授。
秋田県横手市立栄小学校建設などに携わった建築家です。
氏は、木の学校の素晴らしさを、二つの木造校舎の写真を用いて説かれました。
一つ目が、宇和町小学校(現・米博物館)。
そして二つ目が、今回訪問させて頂いた日土小学校でした。
昭和60年(1985)に開催された第二回木造建築研究フォラムで
この二つの学校に出会ったと伺いました。
 
木の建築の良さを伝えるには、どのような切り口が良いか、
思い悩んでいた私にとって、その話はとても新鮮に感じました。
学校建築にはいかなる工夫が必要なのか初めて耳にしたからです。
でもそれだけではありません。私には木の学校の体験があったのです。
二つの校舎のスライドを眺めていると、懐かしさがこみ上げ、
なんだか楽しい気分になってきました。
私は、小学1年から5年生まで、築百年ほどの木造の老校舎に通いました。
真夏には涼しい床下で遊んだこと、抜け節にビー玉を落として覗いたことなど
たくさんの思い出があります。
ところが6年生になると、その校舎は建て替えのため取り壊されることになりました。
卒業する2週間前、真新しいコンクリート造校舎に足を入れたとき、
嬉しさと共に寂しさが湧いてきたのをはっきりと覚えています。
 
安藤先生の話を聞いた翌々年の2007年6月、
私は、日本木青連全国会員福岡大会において
シンポジウムを担当することになりました。
そこでテーマを「木で学校をつくるということ」にしました。
安藤先生の話をたくさんの人に聞いてもらいたいと思ったのです。
結果、一般入場者700名以上、会員・OB800名以上の参加があり、
木造校舎への関心の高さを肌で感じることができました。
それ以来、各地の木造校舎を少しずつ見て回っています。
旧・宇和町小学校にも二度訪れました。
 
今回の日土小学校訪問は、思い出深い見学となりました。
深夜1時過ぎに大分へ入り前泊。翌朝、佐賀関からフェリーを使い
日土小学校に着いたのは午前11時頃だったと思います。
会場でお会いした方に話を伺ったり、写真を撮ったりしていると
あっという間に時間が過ぎていました。
このとき撮影した写真は450枚ほどを数えます。
ひと段落して時計を見ると午後2時でした。
昼食をとるのも忘れ3時間も滞在していたのです。
建物の素晴らしさは、いまさら私が言うまでもありません。
研ぎ澄まされた工夫の集積は、見る者を虜にします。
しかし、それに勝るとも劣らない衝撃を、私は受けてしまいました。
それはこの地域を二分した保存の如何に纏わるエピソード。
「子供たちを文化財の犠牲にするつもりか」
という反対派の言葉でした。

小学校というのは、在校生だけでなく家族や
その地域すべての人々が関わる建物です。
日土小学校の卒業生も数多く住んでいます
さらには災害時、避難所という役割なども加わる特別な建物。
それだけに、この一言は重い、と感じました。
この建物に魅かれ、それまで無邪気にシャッターを切っていた自分に
気恥ずかしさと罪悪感を抱いてしまいました。

それでも、この素晴らしい建物が残り、
現にこうして使われていることに、今はただ感謝したい気持ちです。
保存運動に賛成した方はもちろんのこと、
たとえ反対であっても容認した方々がおられたことで、
この建物は、はじめて今ここにあるのだと思います。
学校はその地域のシンボルとして親しまれるべきもの。
この学校の素晴らしさが、
一人でも多くの人に伝わってほしいと願ってやみません。

これからも、木の学校について思案を深めていく所存です。
日土小学校には、少なくともあと二回、
今回は春でしたから、夏と冬にまた訪ねたいと思っています。
今後とも保存活動が末永く営まれますことを心より願っております。
見学させて頂き本当にありがとうございました。
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2010年 5月 24日

「土と木の家」完成見学会を終えて


 
(5月27日。写真を変更しました。)
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5月22~23日の二日間で開催した「土と木の家」完成見学会が無事終了しました。
二日目であった昨日は、生憎の雨模様でしたが、それでも前日同様に
50組余り100名を超える方々におこしいただき、
延べ100組200名以上の方に足を運んでいただきました。
交通の便の悪い中、本当にありがとうございました。
礼を失したことも多々あったと存じますが、何卒ご容赦くださいませ。
 
今日は、そのときいただいたアンケートの中から、
嬉しいコメントの一部をご紹介したいと思います。
 
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◎木の香りがとても気持ちよかった。
◎お風呂場や台所など水廻りにも木が使われていて使い勝手もよさそうでした。
◎明るくて清々しい森の中にいる様な気持ちになりました。
◎新聞を読んでいたけれど、今回はじめて生で体験し興奮しました。
◎子供がハイハイしたら気持ちよさそう。
◎本当にしっかりしていて、住みやすい家とはどういうものか参考になった。
◎現在マンション暮らしですが、木の家に住むという豊かさをとても感じました。
◎どこまでも繊細な感じで仕上げてあり、大変感動しました。
◎建具・壁どれもあまりに美しくびっくりしました。
 
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新築の住宅見学会は、これからも協働者の枠を広げつつ
進めていこうと考えていますが、
民家の再生や、木を使ったマンションのリフォームなど、
今後は、いろんな事例を紹介するべく企画してみようと思います。
ただ、モデルハウスではなく、あくまでプライベートな空間ですから、
受け入れる側も、訪問される側も、お互いの心遣いが必要だと思います。
今後はそんな工夫が必要だなぁと反省させられました。
ご参加の皆様、そして、お力添えい頂いたお施主様、
本当にありがとうございました。
 
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以下、写真で少しだけご紹介したいと思います。
(良い写真が撮れておらず恐縮です。)
 

外観
 

玄関。作りつけの下駄箱の天板は松。
 

玄関ホールは、茶室でよく使われる掛け込み天井。(杉の赤柾) 
 

和室へとつづく廊下。奥様の趣味、茶事にもつかえる畳敷き。
 

二間続きの和室。座敷は茶室の基本である黒縁、次の間は縁なしの減農薬イグサ畳。
 

トップライトがあり、電気を付けなくても明るいリビング。
 

ダイニング。斜め天井の天井板は30ミリの杉の厚板。
 

タモ材で作成した、オリジナルの台所廻り。
 

洗面所は床・壁・天井すべてヒノキ張り。家具はタモ材のオリジナル。
 

風呂の壁・天井はヒノキ板張り。

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2010年 5月 19日

「木の味覚」を取り戻す


今日は、私のHPのトップページにある「ごあいさつ」文を
リニューアルしました。
現在の、等身大の思いを正直に書いてみました。
ご一読いただけましたら幸いです。
 
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 最近あなたが、美味しいと思った食べ物は何ですか?
その素材は? 調理法は? 誰の手によるものでしたか?
またそれは、どんなシチュエーションだったのでしょうか?
 
 木に携わる私がこんな質問をするには訳があります。
今の木材を取り巻く危機は、「木の味覚障害」に根があると思うからです。
 
たとえば機能から食物を考えたときはどうでしょう。
1.生命を維持する栄養がバランスよくある
2.お腹をこわさない
3.一年を通し安定して食べられ、飢えることがない
 
 こういったモノサシから評価した場合には、もしかしたら、
「カロリーメイト」のような加工食品が最も優れたモノとなるかもしれません。
でも少なくとも、美味しいと記憶される食べ物になることはないはずです。
 
ところが木材において、
同様のモノサシが独り歩きしていると、私は危機感を抱いています。
 
1. 表面に割れがなく、機械測定した強度が印字されている
2. 人工乾燥機で乾かし、含水率が○%以下と表示されている
3. 一年を通し価格が安定している
 
 これらは現在、住宅業界で木材に求められていること。
農林規格(JAS)である木材が、工業製品のように安定した品質であるという証ですから、
木材は使いやすくなるし、クレームも減るし、良いことばかりではないか、
と思う方も多いことでしょう。
 
 でも工業製品のように仕立てる過程で、
木の持つすばらしい特性の多くが失われてしまう、とすればどうでしょう。 
 「酸味・苦味・甘味・辛味・塩味」という味覚が食べ物にあるように、
木にも、木目・色艶の美しさ、触ったときの温かさ、香り立つ芳香、強度、耐久性
というような味わい方があったはず。
  
 たしかに一枚モノ、一本モノの無垢(むく)の木材は、
割れたり、縮んだり、ねじれたり、腐れたり、虫食い穴があったり…
と、欠点とされる多くの「癖」がありますが、適材適所に使うことで、
強度を増したり、長持ちさせたりする、先人たちの知恵と工夫がありました。
 
 工業製品化された木材は、それら「癖」を除去するために、
素材の持つ「力」を奪ってしまっていると、私は思えてなりません。
  
 もしもあなたに、「よい木って何?」と聞かれたら、
 
1.樹齢が高く年輪がつまっていて木目(木の模様)が美しい
2.色つや・材質に優れ強度も高く、ねじれのない素姓の良いもの
3.芳香が香り立つ 
 
そんな木材だと、私は答えます。
 
 「木」の素晴らしさは、これだけに留まりません。
私たちに癒しを与えてくれるようなのです。
このとき、「木」に熱を加えないことが重要であるとわかってきました。
 
『木挽棟梁のモノサシ』11話~インフルエンザ・木のパワーで撃退
『木挽棟梁のモノサシ』12話~癒し・森林に科学的効果
(西日本新聞に寄稿したこの↑記事参照)
  
ですから私は、「木」に人工的な熱を加えない天然乾燥にこだわっています。
 
 天然乾燥とは、細い木を挟み積み上げて、木に風を当てながら数ヶ月から数年間乾燥させること。
昔から伝統的にやられていることなので目新しいものでなく、地味なために目立ちませんが、
これは、究極であるにもかかわらず皆がやりたがらない乾燥法なのです。
  
 丸太を仕入れて納品できるまでに1~2年かかり、資金の手当てが大変。
広大な敷地が必要で、膨大な在庫を抱えることになる。
割れたり腐ったりする木材の管理は手間のかかる至難の業。
 
 それなのに法律では、天然乾燥材は乾燥材と認められていません。
そのため、公共建築物など大きな木造建造物にも使われず、市場は狭まるばかりです。
やればやるほど、経営環境は厳しくなる・・・ 何度「もうだめだ」と思ったかわかりません。

 でも、「癖」を除去するために、素材の持つ「力」を奪ってしまう、
そんな、熱を加える技術は、極力使いたくありません。
 
なぜなら私は、「木味のよい木」がつくりたいから。
  
ぜひあなたにも、味わっていただきたいと、願っています。
そして、美味しいと言っていただけたら、最高に幸せです。
 
 
『木挽棟梁のモノサシ』9話~乾燥・「ゆっくり」が大事
(木材乾燥については、こちら↑もご参照ください。)
 

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2009年 9月 02日

正倉院を身体で感じる。

カテゴリー 木造建築の味覚

ついに政権交代。大きく変わる為の一歩を踏み出しました。
日本にとってそんな重要であった8月30日、私は早々と投票を済まし、社員旅行で
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ここ↑を訪ねておりました。 そう、ご存知の正倉院!^^
それではここで質問です。
教科書などで見たことがあるはずのこの建物、一体どれくらいの大きさかご存知ですか?
この写真からご想像ください。
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私の身長が174㎝ですから、とてつもない大きさだということがお分かり頂けると思います。
お断りしておきますが、写真のように正倉院の真下に入ることはまず不可能です。
それではなぜこんなことができたのでしょう?
・・・それはここが「西の正倉院」だからです。
 
西の正倉院って何?って思った方、けっこう多いのではないでしょうか。
私もつい最近(昨年奈良の正倉院に行った直後)、師匠に教えていただき知ったのですが、
じつはここ、奈良ではありません(笑) 九州は宮崎県、美郷町(旧南郷村)なのです。
平成8年、奈良の正倉院を寸分違わず復元されたのが、この「西の正倉院」でした。
建築にあたっては、瓦の数から木材の寸法、内部に至るまで忠実に復元されています。

(昨年11月、奈良の正倉院に行ったときの記事↓)
https://sugiokatoshikuni.com/?p=35
どのような経緯でこの復元が実現したのか、詳しくは↓こちらをご覧くださいませ。
http://www.town.miyazaki-misato.lg.jp/315.htm
http://www.pmiyazaki.com/nangou_ku/syousyouin/
 
cimg5992.JPG
復元建物とはいえ実際に目にした時、またもや笑ってしまいました。
想像をはるかに超えたものに遭遇し、
声にならない「オオ~」の後こみ上げる笑いとでも申しましょうか・・・(笑)
国宝の建物を見たときと同じような、浄化(purify)された
清々しいオーラに、建物全体が包まれていていて・・・
本当に素直に、感動してしまいました。
樹齢400~500年の木曽の天然檜を2,000本使用し、
造営にあたっては、伊勢神宮の遷宮さながらの様々な神事を重ねられたことなどが、
そのような雰囲気を醸し出すことに繋がっているのかもしれません。
ともかくここは本物。復元物といった陳腐さは皆無でした。
 
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内部は↑↓このように展示室となっています。
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足元の束柱と礎石との接合部をご覧ください。
石の形通りに木が削られています。これを光つけといいます。
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この束柱の直径は2尺(約60センチ)あります。
高さは2.5m。縦4本×流れ10本の計40本で上部の板倉を支えています。
一本のお値段は400万円と伺いましたので、
下世話ながら計算すると、この束柱だけでなんと1億6千万!@o@
復元工事全体の予算が16億3千3百万ということでしたから、
なんとその10分の1が、この40本に充てられたということになりますね。
驚きです。
 
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となりにある神門(みかど)神社の御神木の2本の杉の間に見える正倉院。
不思議な光景でした。。。
正倉院は総檜造ですが、杉の文化研究所ということでご愛嬌(笑)

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2009年 5月 22日

鞆(とも)の浦の景観と太田家住宅

カテゴリー 木造建築の味覚

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(鞆の浦 太田家住宅前の露地にて)
 
一週間前になりますが、広島県福山市へ行ってきました。
日本民家再生リサイクル協会九州地区の「重文民家をめぐる旅」ということで
一日目と二日目の午前中は「崖の上のポニョ」でも知られる鞆の浦(とものうら)を中心に見学しました。
二日目の午後は、重要文化財の「阿伏兎(あぶと)観音」、
国宝「明王院」、さらに福山市美術館にて「北大路魯山人展」と欲張りすぎた気もします。^^
案内役は、このブログでもおなじみの「庭譚 橋本善次郎」にお願いしました。
 
今日は一日目、鞆の浦の国指定重要文化財民家「太田家住宅」を写真中心にご紹介します。
 
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(以下、WEBページ「日本の旅」福山市より編集)
 
鞆の浦は古代から瀬戸内海航路の要所として発展してきました。
室町時代には足利尊氏が後醍醐天皇に対しここで挙兵し、そして織田信長に追い出され、
毛利家の庇護を受けた足利義昭が居住。さらに幕末には「いろは丸事件」発生に伴い、
一時的に坂本龍馬達が立ち寄るなど、歴史的な人物とゆかりの大きい場所です。
  
特に景観の保存がなされているわけではありませんが、奇跡的に幕末~昭和初期の街並みが
広範囲にわたって、そのまま残っています。鞆街並み保存研修会の調べでは、江戸期の建物が
80棟、明治期が91棟、大正・昭和期が301棟あり、このうち保存ずべきは450棟もあるのだとか。
 
(参考編集終わり)
 
そんな鞆の浦に今問題が起こっています。
  
広島県と福山市は道路交通が不便な状況にある鞆地区の改善を行うべく、
道路整備の一環として交通渋滞港湾の一部を埋め立て、架橋する計画を推進中。
一方、反対の声も根強く訴訟も提起されています。
住民は賛成・反対両方の声がありましたが、鞆の浦で出会った方々は、
とても熱く「反対」を主張されている方々ばかりでした。
反対側は、渋滞を解消するために「トンネルをつくる」という代替案を提出しているそうです。
その案は、景観を壊さず、工期も短く、費用も半分程度、理想的に思いました。
しかしながら、行政サイドの反応は良くないらしいのです。
 
難しい問題ではありますが、港町としての古い街並みが特徴である以上、
安易な架橋による風景破壊は魅力を激減させることになり、好ましいこととはいえないと思います。
 
 
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(土間の市松模様は敷き瓦と漆喰で表現しています。保命酒の原料を展示。) 

前置きが長くなりましたが、ここ太田家住宅は国指定重要文化財。
幕末に長州派の公卿だった三条実美ら7人の公卿が、京都で長州藩が薩摩藩・会津藩・
徳川慶喜連合軍と戦って破れた、禁門の変によって西に追われた「七卿落ち」のときに滞在した住宅で、
鞆の特産品である保命酒を竹の葉と表現して称えた歌を詠んでいます。
 
 「世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯(か)くて 嘗(な)むるも 珍しの世や」
 
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主屋の回りをぐるりと蔵が囲んでいます。腰壁の平瓦にサイコロの目の飾りがありました。^^
 
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蔵の中に入ると、そこは美術館のような空間が・・・ちなみに光は東陽です。
 
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柱の竪の線と、化粧貫(けしょうぬき)の横の線でつくられた格子模様の漆喰壁。
このディテイルは「ザ・日本」という感じですね。凛としています。
 
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上の写真の階段を上ると、こんな松の梁が。大きさ、曲がり、とド迫力でした。^^
この時点ですでに2時間近くが過ぎていて・・・ようやく主屋(母屋)へ。
  
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主屋は茶室ばかりでした。床の間のある茶室、座敷がいったい何部屋あったのか。。。
7部屋しか記録をとっていません。それはさておき、
この写真は、「一畳台目」という1.75畳しかない茶室です。
島根の菅田庵(重要文化財・1792年~中板隅炉・本勝手・上座床・不昧好み)と同じ間取りでした。
 
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最後に、これはなんだと思われますか?
 
正解は・・・トイレの音消しです。手水にもなります。^^おしゃれですね~

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