目次
はじめに ~木の味覚
1.子孫に美林を残す
2.もともと木挽きとは
3.古墳時代の柱(鋸がない時代の木材)
4.木挽棟梁という言葉との出会い
5.棟梁とは
6.適材適所
6-(1)神話に見る木の生い立ちと使い方
6-(2)大工と舟大工
6-(3)法隆寺棟梁に受け継がれてきた「口伝」
6-(4)適材適所考
7.木は育ちより氏?
(1)屋久杉と秋田杉は違うのか?
(2)木の育ちと氏
(3)九州の杉の品種
(4)育ちか氏か、どっち?
8.杉の品種とばらつき(強度)
9.杉の品種とばらつき(含水率)
10.それでもやはり「氏より育ち」 九州の木は目が粗い?
11-1.赤身と白太(しらた)
11-2.赤身の柱
12.キロクタケハチ 木に旬はあるのか?
13.乾燥方法(木を魚に喩える)
14.樹齢と材齢
15.伝統木構法は木づかいの王道
16.鉄と木 鉄と木を一緒に使うと・・・
17.近代建築巨匠の終の棲家
18.孟母三遷の教えと木の住まい
19.眠れる杉の真価を探る
(1)古建築からのヒント
(2)杉皮葺き屋根
(3)漆塗りで使う
(4)杉でつくる社寺
20.森づくりは木を使うことから考える
(1)地下資源の可採年数表
(2)森林に対する期待度の推移
(3)緑の砂漠(放置林)
21.割り箸は是か非か
(1)割り箸の文化
(2)割り箸の現状
22.国産材の端材でMY箸
23.おじいちゃんの木
24.森林(もり)の向こう側
25.木の家で子供を育てるということ
26.九州民家塾で民家に触れる
27.子どもたちに育んでほしい心
28.21世紀に生きる君たちへ
29.日田杉の歴史年表
木挽棟梁の木を活かす知恵
はじめに ~木の味覚
あなたが最近、美味しいと思ったモノを思い浮かべてください。
それはどんな食べものでしたか?
素材は 調理法は 誰の手によるものだったでしょう。
またそれはいつ、どんな場所で味わいましたか?
木に携わる私がこんな質問をするには訳があります。
もう少しお付き合いください。
私たち人間にとって食物とはなんでしょう?
1.栄養がある
2.お腹をこわさない
3.一年を通し安定して食べられる(飢えない)
生命維持のために、味は二の次。
まずは、このようなモノサシでの評価があります。
では、これら三つをクリアすれば、それで良いのでしょうか。
ここには、私たちが食事をする時の大きな関心事である
「味わう」という要素が欠けていると思いませんか?
じつは木材において、
同様のモノサシが独り歩きしている、そんな危機感を抱いています。
栄養補給食品のような木材が優秀な評価を得ている気がしてなりません。
1. 表面に割れがなく、機械測定した強度が印字されている
2. 人工乾燥機で乾かし、含水率が○%以下と表示されている
3. 一年を通し価格が安定している
これらは現在、建築業界で木材に求められていること。
たしかに木材はよく乾燥したものでなくてはならないし
食べものと同様、安定的に供給されることが必要。
また、ここにあげた3つのモノサシは、植物である木材が
工業製品のように安定した品質であるという証でもある。
良品が安定価格で入手でき、クレームも減るのだから
良いことばかりではないか、と思う方も多いことでしょう。
でも、このとき「味」が奪われてしまうとしたらどうでしょう。
工業製品に仕立てる過程で選択されている方法は、
熱を加え乾燥させるということ。
このとき、一定以上の熱を加えてしまうと
木の優れた特性の多くを奪ってしまいます。
香り、色艶の消失。耐久性も低減します。
木が好きな私にとって、それは別物ともいえる変わり様。
工業化された木材は、木の持つ「癖(クセ)」を除くために
素材の持つ「力」が奪われたもの、だと私の目には映ります。
たしかに、建築材としての欠点をなくすには、乾燥は避けて通れない課題です。
木材クレームの多くが、割れ、収縮、ねじれ、など
乾く過程における木の変形、いわゆるクセにあるのですから。
だからといって、
クセをとるために力を奪うことが肯定されて良いのでしょうか。
それだけでは、私はつまらない。
もしもあなたに「どんな木が良い木なの?」と聞かれたら、
1.樹齢が高く年輪がつまっており、木目(木の模様)が美しい
2.色つや・材質に優れ強度が高く、繊維にねじれのない
3.芳香が香り立ち、肌触りのよい
そんな木材だと答えるでしょう。
私はそれを「木味の良い木」と表現しています。
未乾燥の木材は、力もあるがクセもある。
乾燥過程で、割れたり、縮んだり、ねじれたりする。
でも、時間をかけて自然に乾かせば、
力を残したままに仕上げることができる。
しかも、このとき残ったクセは、逆に長所となりうる。
適材適所に木組みされることで、強度は増し、長持ちするのです。
木の持つ力は、これに留まりません。
人を癒す力がある、そういわれています。
このとき、木に熱を加えないことが重要だとわかってきました。
『木挽棟梁のモノサシ』11話~インフルエンザ・木のパワーで撃退
『木挽棟梁のモノサシ』12話~癒し・森林に科学的効果
(西日本新聞に寄稿したこの↑記事参照)
よって私は、天然乾燥にこだわります。
天然乾燥とは、細い木を挟み積み上げて
木に風を当てながら数ヶ月から数年間乾燥させる手立て。
昔ながらの伝統的な手法ですから、地味で目新しさはなく
乾燥法というよりは、ただ在庫しているだけのようです。
一見、ローコストで簡単そうに見えるのに、
どうしたわけか、「皆がやりたがらない乾燥法」ともいえます。
なぜでしょう。
丸太を仕入れて納品できるまでに1~2年かかり、資金の手当てが大変。
広大な敷地が必要で、膨大な在庫を抱えることになる。
割れたり腐ったりするので管理が難しく手間がかかる・・・
そんな理由から、究極の乾燥法だと思ってはいても
現実としてはなかなかできない、というわけです。
お知り合いに材木屋さんがいたら尋ねてください。
皆さん口をそろえこう言うはずです。
「本当は天然乾燥がいいんですよ…」
これだけ伝統的で決定版ともいえる乾燥法なのに、
不思議というか、納得できないことがあります。
法律上、天然乾燥材は、乾燥材と認められていないのです。
これにより、どんな不都合なことが起こるかというと、
たとえば学校建設に、木の免疫能を高める力を発揮するよう
天然乾燥材を使うことを計画したとき、現法下でそれは
乾燥材とみなされず使用不可となることなどがあげられます。
もったいない話だと思いませんか?
話がそれてしまいました。
私は、木造建築が大好きな人間です。その私が尽くしたいことは、
木のもつ力を最大限に生かすことです。
このとき、大切にしているのが「木の味覚」。
木味のよい木には「力」があり、それは誰もが感じとれる。
赤ちゃんの命を守るために、妊婦がつわりになるように、
味覚と生命維持には、深いつながりがあるのだから。
五感をフル活動させ、木を味わってみませんか。
あたらしい暮らし方が待っていますよ(笑)
『木挽棟梁のモノサシ』9話~乾燥・「ゆっくり」が大事
(木材乾燥については、こちら↑もご参照ください。)
1.子孫に美林を残す
祖父は自他共に認める山好きな人でした。
幼少の頃の休日は、朝5時頃起床で山に連れて行かれました。
せっかくの休みなのに、早朝に起こされるので、友達と遊べません。
山に行く前の日は、億劫でたまりませんでした。
でもいざ着いてみると、木立に差込む光、冴え冴えとした空気。
鳥の鳴き声に虫の音。小川の水は冷たく甘い。
カサコソと野生動物の気配を感じては、猪、鹿、兎、雉と出会う。
昼飯が近くなれば小枝を探し、鉈でお箸を作り、母のにぎり飯を堪能。
結構楽しい思い出ばかりです。
山遊びがほとんどでしたが、少しは仕事にも貢献しました。
「よ~ぃっ!」と呼ばれると、声のする山師さんの下へ、
水筒や機械油を走って運んだものです。
祖父は60歳のころ(私が生まれた時期)から禿山を買い始めたと聞きます。
第二の人生として、そこに植林していくことをライフワークとしたようです。
山が道楽だったのでしょう。
仕事がなくても山に行っては、立木に尺を回し、
太ったな、伸びたな、と目を細め私にこう言いました。
「おまえが俺ん歳になりゃあ、こん木も、えらいもんになっちょるざい。」
(朝倉市内にある所有林。50年前、自宅を建てる際に伐採し植林された杉山。
祖父が若い頃初めて購入した山でもある。)
祖父が「山好き」ならば、父は「木好き」と言えるかもしれません。
父は銘木と呼ばれるような大木を全国から買い集めてきました。
国鉄(当時)の貨物列車でやってきた、天竜や吉野の山からの巨木は雪が被っていました。
家と同じ敷地内にある土場(どば)には、私の背丈を凌ぐ直径をした丸太が並び、
大木がまるでピラミッドのように、うず高く所狭しと積んでありました。
自宅は木組と土壁の和風建築。
そこに使われた木材は、自分の山のスギの木を伐り用立てたといいます。
建てた翌年に植林しているので、その山の木の樹齢と家の年齢はほぼ同じです。
ちょっと古くなってきた家の木と、生き生きとした山の木は不思議な対比です。
まあこのように、どこにいても木に囲まれた幼少期を送りました。
家業がある家の長男に生まれた人間は、継ぐかどうかプレッシャーを受けながら育つものです。
大学を出ると私は、継ごうとはせず印刷会社に就職し5年働きました。
でも木に囲まれた幼少期を送ったからでしょうか。
入社して4年目、印刷物の仕事だけにとどまらず、クライアントに木造建築を提案しました。
企画としての評価は受けたものの、建築まで請負うことはできません。
このころから、建築企画という仕事への思いが日に日に強くなりました。
経済学部出身の私は、生い立ちから縁のある木を武器に、
建築に関わってみたいと思うようになり決断します。
28歳のとき、父は継げと言いませんでしたが、会社を辞め跡を継ぎました。
とはいっても、当時は痩せていて体力もなく、木の知識もない。
工場の仕事はきついだけで、自分に向いていないと後悔ばかりしていました。
さらに製材業は斜陽産業です。
私の地域の製材所は最も多いころから5分の1に激減しています。
ビジョンが見いだせないまま、先の見えない不安に押し潰されそうでした。
最近になってようやく、そのころのことが笑って話せます。
それでも、「子孫に美林を残せるか」と聞かれたら…
なかなか肯定的な返事をすることはできません。
山を維持するには、長い年月の管理が必要ですし
経済的にも時間的にも、私の代でさえ難しいと感じているからです。
それでも私は、祖父を真似てみたいと思うようになりました。
木に目を細めた祖父の眼差しを忘れたくないのです。
・40年前の祖父と私
2.もともと木挽きとは
木挽きとは、大鋸(おが)という大きな鋸で丸太を材木にする仕事。
室町時代に繊維と平行に挽く縦挽き鋸がでてきたときに生まれました。
製材の機械化が始まる明治時代まで、木挽きと呼ばれる職人たちが
あらゆる材木を大鋸一丁で製材していました。
材木屋という商売のルーツは木挽きです。
木挽きは、社寺の普請が多かった関西で発達しましたが、
江戸時代に入ると、関東でも神社仏閣の建築が盛んになり、
そのとき関西からたくさんの木挽きが呼ばれました。
とはいえ、仕事が定期的にあるわけではありません。
そこで、次の注文が来るまでの食い扶持に、自分の家の前に太い木を運び、
それを柱や板に挽き、軒に立てかけて一般小売を始めたのです。
それが徐々に集約化すると、木挽きを何人か集めて挽かせ、
原木の買い付けと材木の販売に専念する者が現れます。
こうして材木屋が生まれました。
大正時代頃まで、家を建てる人というのは、まず最初に木場の材木屋に行きました。
そこで木を挽いている木挽きが、いろいろと相談に乗ったのです。
それぐらいの間取りならこれくらい木が要るとか、
その予算ならこれぐらいのレベルの材が使えるとか、
それは成金趣味だからやめた方がいいとか、こんな木もあるよとか。
間取りの決定から材選びまで木挽きが関わって、商談がまとまると、
今度は実際にその通りに木を挽いて数を揃え、大工さんに渡しました。
渡すときも、木に番号を振って、これはここ、これはこういうふうに使うって指示をします。
少なくとも、大正時代まではそれが普通でした。
今の木挽きは、ただ木を挽くだけが仕事になってしまいましたが、
本来は日本の木造建築に重要な役割を果たしていた、もう一人の大工棟梁なのです。
「富嶽三十六景 近江 山中」 葛飾北斎 (東京国立博物館蔵)
4.木挽棟梁という言葉との出会い
自称するのが躊躇われる木挽棟梁。
2001年頃、どんな仕事をしたいのかその思いを話した時、
(有)建築工房悠山想(ゆうざんそう)の宮本繁雄さんが言ってくださったのが、
という言葉でした。
その頃私は、木の良い使い方を学ぶには古い民家を見て回るのがよかろうと
NPO日本民家再生協会に入会したばかり。
宮本さんは協会の九州沖縄地区を発足させた委員長でもありました。
(宮本さんが再生したT邸の棟木。明治47年に建築)
その職能を耳にしたのはこのときが初めて。
「古い家の棟札には大工棟梁と一緒に木挽棟梁の名前があるよ。
上棟祝いのときは大工より上座だったとも聞くしね…」
とも聞きました。
宮本さんは、「棟梁」を自らこう定義しているそうです。
営業力に長け、人を育てられ、マネジメントができる人」
それからというもの「木挽棟梁」の職能とは何か、考えるようになり、
「適材(木)と適所(木組)をもっと知りたい・・・」
という思いが徐々に強くなっていきました。
適材といっても杉だけでたくさんの品種がある。
樹種まで広げるとそれは大変な種類があることを知らねばならない。
また、適所といえば、もっと建築のことを知る必要がある。
とくに、山の木をそのまま活かすためにも、
木組みの伝統的な木構法を勉強したい、と思うようになりました。
そして今、私は思います。
山にある木を材として、真の価値を引き出すには、
伝統的木構法を増やしていかなくてはならない。
そのためには、適材適所を心得た「木挽棟梁」が存在せねばならない、と。
5.棟梁とは
田中文男棟梁の棟梁の心得。
この文章の「大工」を「木挽」に変えて読めば木挽棟梁の役割が見えてくる。
『現代棟梁・田中文男 (INAX BOOKLET)』
棟梁とは
1.大工として基本的な技能を持っているか。
2.自分の仕事だけでなく、後輩や同僚の仕事の面倒をみてやれるか。
3.下職の手配をしてそいつらの面倒をみてやれるか。
4.仕事の段取りに工期と材料と人の問題がある。これを手配できるか。
5.自分でやった仕事、あるいは人に頼んでやった仕事が指示どおりに出来上がり、
お客さんに文句を言われないで金をもらえるか。
6.頂いた金を仕事をやってくれた人に払って、再生産するだけ自分に残るか。
7.今の仕事も見ながら次の仕事の段取りができるか。
8.仕事をしかけられるか。
田中棟梁とお会いしたときのブログ↓
http://blog.goo.ne.jp/marusugi_2006/e/6f13b3bc8f3619905a1176c0f4078dd6
6.適材適所
世界の市場で流通されている木の種類は数千種といわれていますが、
木は用途により使われる樹種が異なります。
建築材や建設、土木用材。建具材に家具材。
樽、桶や道具類。紙の原料も木ですし、船も昔はその多くが木造でした。
縄文時代には竪穴式住居に代表される建物が発生しました。
使われた部材は栗の木が多かったようです。
また、栗をうたった短歌が万葉集に納められているように、栗の木は
部材としてだけではなく食料としても古代から日本人の生活に密着していました。
(古墳時代以降の建築用材はクヌギ類の使用に置き換えられる。)
栗は、細長い日本中に幅広く分布していたらしく、
日本の気候風土にあった木の代表格といえるかもしれません。
6.-(1)神話に見る木の生い立ちと使い方
日本書紀神代紀に、
「抜鬚髯散之、即成杉、又抜散胸毛是成檜、尻毛是成柀〈磨紀〉、眉毛是成樟」
という記載があります。素戔鳴尊(スサノヲノミコト)が、
髭を抜き、胸毛を、尻毛を眉毛を抜いて、杉、桧、槇、楠といった木を作り、
スギ、クスは船に、ヒノキは建物に、マキは棺桶に用いると良い、
と教えたと記されています。
神代の御世より木材は適材適所に使うという考え方が存在し、
その指摘は現在でも誤りではないと考えられているのです。
素戔鳴尊(スサノオノミコト)の子神が五十猛命(イタケルノミコト)です。
五十猛命は父神・素戔鳴尊と共に木種を持って高天原から韓地(カラクニ)に天降りますが、
その地には植えずに大八洲国(オオヤシマグニ=日本)に渡り、
父神の命を受けて日本中に木を植て廻り、最後に紀伊国に鎮まったとも記されています。
このことから五十猛命は「木の神様」と呼ばれ、
和歌山県の伊太祁曽(いたきそ)神社に祀られています。
■ 髭 =杉(スギ)⇒浮宝(船) うきたから
■胸毛=檜(ヒノキ) ⇒瑞宮(宮殿)みずのみや
■尻毛=槙(マキ)⇒棄戸(棺桶)すたへ
■眉毛=樟(クス)⇒浮宝(船)
(伊太祁曽神社の御神木)
6-(2)大工と舟大工
塩飽諸島 本島笠島地区(塩飽水軍本拠地)
2003年、香川県の丸亀港からフェリーに乗り
塩飽(しわく)本島の笠島地区を訪ねました。
塩飽水軍の本拠地としても知られる水夫と大工の町で、
伝統的建築物群保存地区に指定されています。
福沢諭吉やジョン万次郎が乗船したことでも知られる
勝海舟の咸臨丸は、水夫50名のうち30名が塩飽出身者でした。
笠島地区の住民はもともと船大工が多く、
出稼ぎで住宅の大工も請け負っていたようです。
そこで面白い表現を耳にしました。
確かに、日本の伝統的な木組みの構法では、
この表現の通り曲がった木をまっすぐに使います。
手刻みの大工さんたちは、直材から製材した曲がらない桁・梁を嫌います。
「どちらに曲がるかわからない」と言うのです。
木の曲がろうとする力を利用し、そこに荷重をかけて強度が増すよう木を組むのですから。
今、在来軸組工法と呼ばれる木造住宅は戦後に生まれた工法です。
伝統的な民家の木組みを継承したものではありません。
言葉が紛らわしく、私も長い間勘違いしていました。
しかも在来軸組みの現状は、その9割がプレカット工法となっています。
それらは、高温で乾燥し曲がらない木材を使います。
また、木の接合を金物と釘で継ぐ為、木の接合部は短く緩く、
壁の強度を保つため合板で固めるのが主流となっています。
資源からみると、プレカットが主流であるという問題点のひとつに、
曲がり材の使い道が限定されることがあげられます。
木とは、もともと斜面に立つのですから、ほとんどが若干曲がっています。
曲がり材が、著しく安価となっているのは、
山林の荒廃と深い関係があるように思います。
「曲がった木を まっすぐに使」い、
真直ぐな木でつくるより丈夫なものを作るのが、
手で刻んだ木組みの伝統木構法です。
この技術を次世代に引き継がねばならないと考えています。
6-(3)法隆寺棟梁に受け継がれてきた「口伝」
宮大工棟梁・西岡常一・著 『「口伝」の重み』より
○法隆寺棟梁に代々受け継がれてきた「口伝」があります。
それは、
■堂塔の木組みは木の癖組み。
■木の癖組みは工人の心組み。
■木は生育の方位のままに使え。
■スギなら七百年、八百年、マツなら四、五百年はもつ。
しかし千年以上ビクともしないヒノキに勝るものはない。
というもの。
曲がった木を まっすぐに使うことを「木の癖組み」と表現しています。
「木の癖組みは工人の心組み」は田中棟梁の棟梁8つの心得に通じます。
そして、ヒノキは素晴らしい木とありますが、その次に長持ちするのはなんと「スギ」です。
別の頁にケヤキも三、四百年とありますから、スギの力はたいしたものだと思いませんか?
6-(4)適材適所考
以下は、2005年「民家」誌42号『ニッポンの林業』に寄稿した中の
「適材・適所のマネジメント」という章の一部抜粋です。
*****************************************************
私の工場は、素材の九割が80年生をこえる高樹齢で、九州内の杉を原料としています。
しかし、私が知っているだけでも九州の杉は100種余りあります。
杉は一属一種ですが、品種によって樹種間ほどの性質の違いがあります。
ピンとキリではヤング係数が三倍も違います。
また、一番玉と二番玉でもヤング係数は違います。
育林状態や樹齢、直材か曲がり材かも加味すると、
杉という素材に限っても天文学的な数のパターンがあります。
さらに、同じ山の木でも、伐り時期で大きく変わります。
「キロクタケハチ」という言葉があります。
これは、六月までに伐った木と八月までに伐った竹は良い材料にならないという伝承です。
これは旧暦でいっていますから、今でいうと木は三~八月、
竹は三~一〇月ぐらいの間は伐ってはいけないと解釈できます。
確かに、木は寒伐り材(およそ秋分から春分までに伐採した木)がよいといわれます。
これは、樹木の中の水分が少ないため、乾きやすく虫がつきにくいからです。
吉野ではもう少し早い時期の土用に伐って葉枯らしをしますが、
九州では伐採後すぐに玉伐りすることが多いので寒伐りになります。
私は、この寒伐りの時期に一年分の原木をストックするようにしています。
「適材」とは、杉に限ってもこのように奥深いものがあります。
次に「適所」を考えると、気が遠くなります。
2004年、JMRA九州・沖縄地区運営委員会と新建築家技術者集団の共催で、
増田一眞先生の新伝統木造セミナーが行われました。
私も参加し、架構や継手・仕口の奥深さに感銘を受けました。
「適所」といっても、蟻掛けと渡り腮(あご=ルビ)では違う考え方をしなければならないなと感じました。
さらに、「適所」は奥が深いものです。
柱脚の方なのか柱頭の方なのかでも使用する素材、木取りは違ってきます。
雨がかりするところか、経年変化のなかで雨漏れするところなのかも想定しなければなりません。
建て主がその住居に求める耐用年数がどのくらいなのかということを常に念頭に置く必要があります。
家族構成も考えて提案しなければなりません。
私の工場では、適材適所の木取りの方法として、一年ほど丸太で乾燥した後、
図面などで使用箇所を確認しながら少し大きめに製材し、桟積み乾燥しています。
数か月の自然乾燥の後、修正挽きまたは加工を加えて部材として納品しています。
(一部床板等は蒸気式人工乾燥機による仕上げ乾燥を施します。)
原木購入から納品まで一~二年というスローな形態でつくっています。
***************************************************
ここに、仕事としての適材適所を大まかに書いていますが、
以下、もう少し詳しく「適材適所」について考察してみたいと思います。
7.木は育ちより氏?
7-(1)屋久杉と秋田杉は違うのか?
杉は一属一種です。ヤマザクラとソメイヨシノのような差はありません。
では・・吉野杉、秋田杉、日田杉などは、同じ品種なのでしょうか?
全国の様々な銘木を扱った数奇屋大工の中村外二(そとじ)さんはこう言っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『京の大工棟梁と七人の職人集』(笠井一子・著)より
「同じ杉でも秋田と吉野じゃ、全然違う。
また一概に吉野杉がどうこうといえんのですよ。
同じ産地でも植わっとる場所によっても違ってくるから。
陽の当たる山の背か谷あいか、山の斜面か風当りのきついとこか、
水捌けのいいとこか湿気のあるとこか、地べたによってみんな違うんやから。」
中村外二(数寄屋大工。松下幸之助邸・ロックフェラー邸・俵屋など)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一属一種なのに、
「秋田と吉野じゃ、全然違う。また一概に吉野杉がどうこうといえん」
とあるので、この本を読んだ方は、木は氏より育ちなのだろう、と考えることでしょう。
ところがそうとは言えないのです。
7-(2)木の育ちと氏
まずは育ちから見ていきましょう。
スギの天然木は青森県から鹿児島県の屋久島まで分布していますが、
地域的に不連続に分布しているため、それぞれの地方での気候条件、
土壌条件などの違いによって品種に分布しました。
秋田県米代川流域のアキタスギ、奈良県吉野のヨシノスギ、
高知県魚梁瀬のヤナセスギ、鹿児島県屋久島のヤクスギなどが有名です。
また、これらを大きくまとめて、日本海側のウラスギ、太平洋側のオモテスギの二つに分けます。
九州という陸地の上に、天然杉はオニノメスギとよばれるものがありますが、
九州の杉の多くは人工林の栽培品種です。
また、ここでいうウラスギとオモテスギは分水嶺によって分けられます。
九州の分水嶺は英彦山、阿蘇、霧島です。
人工林は全国到る所に見られ、その地方で特徴のある保育がなされています。
特に有名な人工林業地としては静岡県天竜川筋、奈良県吉野、鳥取県智頭、
大分県日田、熊本県小国、宮崎県飫肥などが知られており、
それぞれの地方に永年継続して栽培されている栽培品種がみられます。
ここであげる六つの地域の内、その半数の三地域が九州に固まっています。
しかも、日田・小国は筑後川流域です。
天然林ではないので、正確には分類できないでしょうが、地図からいうと
飫肥杉(おびすぎ)はオモテスギ、日田杉、小国杉はウラスギと言えるのかもしれません。
木の場合の「氏」とはどういうことでしょうか?
杉の品種には、天然木の地域性品種と人工木の栽培品種があり、
九州の杉の多くは人工林の栽培品種です。
栽培品種は大きく分けて二つに分類されます。
「親から産まれた子」である種子から育った『実生杉』と、
「親をクローン(栄養系)増殖」した『挿し木』です。
九州の杉の栽培品種をまとめた下の地図を見れば、
一属一種とはいっても杉は、もう少し細かい単位である
品種が数多く存在していることがお分かりいただけると思います。
九州では、「挿し木」品種が主流の林業地が多いようです。
実生と挿し木との違いは、子供とクローンの相違といえます。
子供は個体間での差が激しい、つまり出来の善し悪しがあります。
一方、クローンは同じDNAですから、均一なものが大量にできます。
8.杉の品種とばらつき(強度)や9.杉の品種とばらつき(含水率)の
グラフを見れば、その傾向が顕著に表れていることがわかります。
「九州のスギとヒノキ」 宮島寛 著 より (九州大学出版会)
7-(3)九州の杉の品種
それでは、九州のスギの栽培品種はどれくらいあるのでしょうか。
以下の表をご覧ください。
異名同種・同名異種もあるでしょうが、100もの名前があるようですね。
「九州のスギとヒノキ」 宮島寛 著 より (九州大学出版会)
7-(4)育ちか氏か、どっち?
前置きが長くなりましたが、育ちか氏かはっきりわかる実験があります。
同じスギクローンのセットを九州の北から南まで植えて、その木材の性質が調べられました。
写真は、
A.同じ品種を九州北部(阿蘇山麓)と大隅半島に植える。
B.異なる品種を同じ所に植える。
このときの細胞組織の拡大写真のマトリックスです。
植栽地域の違いではなく、クローン間の違いがはっきりと見られます。
また、剛性を示すヤングヤング係数のバラツキを調べると・・・
A.植栽地間のバラツキは7%。(個体間にバラツキは認められない。)
B.品種間のバラツキは60%以上。(大きなバラツキが認められる。)
という結果が出ました。
これは、植林・育林等の施業方法が同様であれば、さし木の木材の性質は地を選ばないといえます。
つまり、まずもって木は、「育ちより氏」と言えると思います。
8.杉の品種とばらつき(強度)
品種による強度のバラツキの話をもう少し続けます。
さて、この品種による品質の差ですが、11年ほど前私は、
後の方向性に影響を与えたある貴重な体験をいたしました。
それはまだ私がこの世界に飛び込んで間もない頃のことでした。
当時私は、杉の赤身の強度は白身より高いのではないか、という仮説を立てていました。
そこで、福岡県森林林業技術センターに杉の桁材を百数十本持ち込み、
センターの研究者の方々の協力を得て、強度の検証を行いました。
一本一本重さを量り、木口(年輪部)を金槌で叩き、音の周波数を採取します。
これにより、木材の強度=ヤング係数の推定値が計測できるわけです。
残念ながら、強度において赤身が強いとは言えませんでした。
ところがこのとき、思わぬ収穫を得ることになりました。
それは、同じ九州の杉なのに、強度の差が、
ピンとキリでは3~4倍もあるという事実でした。これには衝撃を受けました。
品質の差があるということは分かっていたけれども、
数値にそれだけの開きがあるなんて、思ってもみませんでしたから。
そして同時に、面白いことに気づきました。
それは、先代・先々代から教わった、「この木は硬い、この木は柔らかい」、
といった「木の見立て」は正確である、ということでした。
さらに、この硬い木、柔らかい木の差が、
品種の違いと年輪幅に関係していることを感覚で掴むことができました。
それからというもの、私は
年輪を見ただけで品種を見分けられるようになりたい、と思うようになりました。
すると面白いものです。徐々にではありますが、
剛性が高く硬くて強い品種(a)、
多少柔らかいがしなって折れにくい曲げ強度の高い品種(b)、
柔らかくてサクサクしているが、曲がったりねじれたりしない品種(c)、
などの特性がわかるようになってきました。
ちなみにa)は柱や桁・梁といった構造材に、b)は桁・梁などの横架材に、
c)は板材や下地材、節が少ないものは建具に、などといった用途が考えられます。
同じ山に多くの品種の杉が植えられていたりもしますが、
例えば家を一軒建てる場合、最小の面積を伐採するだけで、a~cといった
様々な用途の木材が採れると考えれば、合理的と言えるのかもしれません。
9.杉の品種とばらつき(含水率)
下のグラフは、切ったばかりの杉の木の、水の分布を表したものです。
実生杉のグラフはかなりバラついています。
また、ヤマグチ・ナカムラといった品種は、7-(3)の表をみていただければわかりますが、
実生品種なので、栽培品種とはいえバラつきがあります。
キウラ・ヤイチ・アカバ・ホンスギは挿し木品種なので、バラつきが少ないようです。
10.それでもやはり「氏より育ち」 九州の木は目が粗い?
それでは、木の善し悪しに育て方の影響はないのでしょうか。
もちろん、そんなことはありません。とても重要です。
下の写真を見比べて、どちらが九州の杉かお考えください。
A.
B.
ほぼ直径は同じくらいの木です。
Aは60年生くらいです。年輪幅が広く、私たちは目粗(めあら)と呼んでいます。
Bは100年生です。年輪幅が細かく、私たちは目細(めごま)と呼びます。
みなさん、おわかりですね。そうです。Aが九州材です。
それではBは? じつは、これもまた九州材なのです。
うちに、日本のいろんな地域の設計の方や大工さんたちがお見えになります。
このとき、丸太のストックを見て皆さんが一様におっしゃられるのが、
「これ杉ですよね。九州の木ですか?」というもの。
そうです、と返事すると、九州は温かいから目粗材になる、と思っていたと仰います。
年輪幅を決める第一の条件は、植林する時、どれくらい密植するかです。
たとえば、目細で知られる吉野林業は、1haあたり1万本植えるそうです。
1haは10,000平米なので、1m間隔に苗を植えるということです。
では九州ではどうだったのでしょうか。
九州では桧はできるだけ密に、杉は少し間隔を開けて植えられていました。
桧であっても1haあたり3千本くらいです。
1haは3,000坪なので、1坪に1本という間隔です。
おおよそ6尺(1.8m)間隔に植えるのが密植という感覚だったのだと思います。
戦後は木材が不足しました。それで拡大造林も行われました。
当時は、杉を30~40年で伐採していましたので、
たくさん植えて苗代もかかれば植林費用もかかる、
しかもこまめに間引いていかなくてはならないので手入れ費用もかさむ、
そんな吉野林業のような施業は考えられなかったと思います。
そこで、7尺間隔、8尺間隔で植えられた山が広く出現しました。
さらに、どんどん成長する精英樹(せいえいじゅ)クローン苗が品種改良され、
その動きを加速させていきます。
これが、九州の杉は目粗、という常識を生み出したのです。
ところが、戦前からの大山主などと呼ばれていた林業家は、
もっと長期に木を育むことを試みていました。
それがBのような、目細の杉の木なのです。
では、目粗と目細の強度の差はどうなのでしょうか?
もう一度、下のグラフを見てください。
ローソク足の上の方が目細材、下の方が目粗材の傾向があると思います。
(割れなどの欠点があっても、下のほうになります。)
真ん中の薄ピンクが全体の50%で、その中の濃いピンクの線が平均値です。
ある品種で最も強い個体であっても、他の品種のもっとも弱いものに比べ
強度が劣る、ということが起こってくるようです。
11.赤身と白太(しらた)
丸太を輪切りにすると、外側の淡い色をした辺材=白太(しらた)と呼ばれる部分と、
内側の濃い色をした心材=赤身と呼ばれる部分を区別することができます。
心材は初めから心材であったのではなく、丸太の外周に位置する形成層で形づくられ、
辺材として数十年(樹種・品種で異なる)を過ごし、ある時、心材に変身するのです。
なぜこのようなことをするのでしょうか。
辺材で生き続けた柔細胞は、あるとき死を迎えます。柔細胞は死に臨んで、
辺材を心材に変身するための仕事(心材化)をします。柔細胞はそれまでも
微生物などの攻撃から樹木を守ってきましたが、自分が死んだ後もその使命を果たすため、
微生物の嫌いな樹脂や色素といった心材成分を合成し、細胞を覆ったり微生物の通り道となる
細胞中の通路(壁孔壁)を塞いだりするのです。
ですから、心材は辺材に比べ微生物やシロアリに対して強いのです。
心材化の誘因としては、水ストレスなどが考えられています。
心材成分生合成に関与するフェニルアラニンアンモニアリアーゼやカルコンシンターゼ活性は、
辺材内部で秋期に高くなることが最近報告されたということです。
ちなみに、品確法に木の耐久性が高いと表されるD1樹種があります。
耐久性の実験は、3センチ角ほどの木材を地中に埋めて行われています。
そのサンプルは、心材部=赤身の部材を使用しています。
ところが『流通している木材は赤身材で選別されているものは極めて稀です』。
品確法のD1樹種は、有名無実となっています。
以下参考
針葉樹:桧、米桧、ヒバ、米ヒバ、杉、米杉、カラマツ、米松、ダフリカカラマツ
広葉樹:ケヤキ、クリ、クヌギ、ミズナラ、カプール、アピトン、セランガンバツ、ケンバス
2×4材:ダグラスファー、ウエスタンラーチ、ダフリカカラマツ、パシフィックコースチ、イエローシーダー、
タマラック、ウエスタンレッドシーダー、カラマツ、桧、台湾桧、ヒバ、杉、
D1樹種の中でも耐久性が高いと認定されているのが特定樹種。
特定樹種:桧、米桧、ヒバ、米ヒバ、米杉、ケヤキ、クリ、ウエスタンレッドシーダー、台湾桧、
11-2.赤身の柱
以下は、2005年「民家」誌42号『ニッポンの林業』に寄稿した中の
「高樹齢材の行き場がない」という章の一部抜粋です。
*****************************************************
林野行政で力説されてきたのが「間伐材の有効活用」です。
在来木造の9割を占めるプレカット工場で使われる国産材の構造材は、
杉の場合12センチ角までで柱に使われます。ヒノキの場合もやはり12センチ角までの土台使いです。
断面が12センチ角であれば、原木ならば直径が16センチで十分とれます。
それ以上の断面の構造材は、輸入材か集成材となります。
すなわち今日の木材利用は、
『間伐材程度の大きさの木しか有効活用していない』ということです。
森林を育成するうえで間伐という手入れはたいへん重要ですが、
間伐などの手入れをし、収穫(皆伐)できるまでに育った樹には、
使ってもらえる「行き場所」がないのです。
今の木造住宅を例えるならば、「間引き菜しか食べていない住宅」ではないかと感じます。
「これからの新しい民家」の課題は、
「育った木をいかに活かすか」ということに尽きるのではないでしょうか。
私は、家の骨=木のルーツを実感できる試みを行っています。
大量にストックしてある土場まで建て主に足を運んでもらい、使う予定の原木を見てもらっているのです。
工場にて、12センチ角の芯持ちの白太の柱、芯持ち赤身の柱、そして柾柱を見せます。
模様は違っても、すべて木の12センチ角なので、たとえばその価格差を説明しても
納得のいかない表情をしています。ところがそんな建て主も、原木を見れば笑顔になります。
白太柱用16センチの丸太、赤身柱用26センチの丸太、柾柱用の四六センチ以上の丸太
を見比べれば、その価値の差は明らかなので理解できるのでしょう。
加えて、土場で二年以上置いた原木を見てもらいます。
指で欠いただけでポロポロと崩れていく腐朽した辺材(白身)を手斧で削ると、
堅く艶々した心材(赤身)が現れます。
このときも、建て主は必ず笑いだします。
「高樹齢の樹は、この赤い部分で自分の大きな体を支えているのです。
樹の構造となっている部分をそのまま家に構造材として使うというのは道理だと思いませんか」
そう話しかけると、高樹齢材の付加価値を確信したように頷かれます。
外周の辺材部だけが腐朽菌にやられている。
心材部はこう見えて大丈夫。
12.キロクタケハチ 木に旬はあるのか?
木の食べ頃、いわゆる「旬」はあるのでしょうか?
じつは、同じ山の木でも、伐り時期で大きく変わります。
かなり前に耳にしたのですが、「キロクタケハチ」という言葉があります。
木は六月まで、竹は八月まで伐ってはならない、良い材料にならない、という伝承です。
これは旧暦でいっていますから、今でいうと木は三~八月、
竹は三~一〇月ぐらいの間は伐ってはいけないと解釈できます。
なぜでしょうか。
今でも、木は寒伐り材(およそ秋分から春分までに伐採した木)がよいといわれます。
これを「伐り旬(きりしゅん)」と私は呼んでいます。
この時期に伐った木は、樹木内に水分が少ないので乾きやすく虫がつきにくいのです。
伐り旬を外れた木は、樹内に水分が多く、乾燥に時間がかかります。
そして、虫がつきやすいだけでなく、腐朽菌により腐れやすくなります。
吉野林業ではもう少し早い時期の土用に伐って葉枯らしをしますが、
九州では伐採後すぐに玉伐りし出荷することが多いので寒伐材がよいとされます。
それで私は、この寒伐りの時期に一年分の原木をストックするようにしているのです。
13.乾燥方法(木を魚に喩える)
木の話をするとき、魚に喩えながら話をすると皆さん分かりやすいようです。
それでは乾燥方法から。
木で言う乾燥方法はいかに熱を加えるか、
つまり「調理方法」と言い換えることができると思います。
木材の人工乾燥機は、蒸気式、燻煙式、液槽式(パラフィン)
高周波式、マイクロ波式などがあります。
これは、蒸す、燻す、揚げる、電子レンジといった加熱を人工的にする機械です。
また、温泉を利用した乾燥法もあります。これは「煮る」でしょうか。
でも昔から最も一般的だったのは、天日乾燥でした。
木をキャンプファイヤーのように桟積みし、乾かすのです。
私は、この天日乾燥にこだわっています。
木が乾くとき、どうしても割れが発生します。
天日乾燥は、空気と面したところから割れが生じます。
一方機械式乾燥は、木を高温で加熱するのですが、
外部に割れが生じるとB品となるので内部に割れを起こします。
じつは、これが問題なのです。
木組の場合、木の接合は、木自体に凹凸をつけて組み合わせます。
内部が割れるということはつまり、凸部が弱くなっているということなのです。
また、高温で熱処理をすると、樹脂などの耐久性を高める成分を
水と一緒に外に出してしまいます。
このようなことから、構造材はとくに、気温以上の熱処理をしないことが需要だと考えています。
なお、乾燥法によって耐久性が上がるとか、強度が上がる、
などといったパンフレットを見かけますが、木材はもともと乾かせば強度は増します。
また、調理法を考えればわかりますが、どんな魚でも何よりも美味しくなるような
方法はありません。あくまで調理とは、素材を最大限に活かす手法です。
むしろ、素材の良し悪しが語られなくなっている現状に、私は危機意識を抱いています。
余談ですが、
エルビン・トーマが研究するオーストリアの新月伐採という方法があります。
秋から冬にかけての新月の時期に伐るというものです。
これは、12.キロクタケハチの伐り旬とも通じる話ですが、
面白いのはその伐り方です。
日本には、葉枯らしという伐り方があります。これは梢を尾根側に倒します。
木はまだ生きていると勘違いし、樹内の水分を吸い上げるのです。
一方、新月伐採は逆に、梢を谷側に倒し、しばらく放置します。
乾燥は進まないのですが、擬似心材化が起こり、白太の耐久性が上がる
というデータもあるようです。(心材化については、11-1.赤身と白太を参照)
これは、魚で言うと「絞め方」と言ってよさそうです。
ここで、少しだけ流通の話もしましょう。
例えば皆さんが宴会に行ったとき、料理がいっせいに並べられているとします。
このとき、魚の種類や大きさがまちまちであったら、皆さんはいかがでしょうか。
一匹一匹の味や大きさとは違った価値があるのに気づかれると思います。
同じ種類の同じ大きさの魚が大量に揃うことが、消費を呼び起こし、
価格が形成され付加価値を生みます。
木材も同じです。同じ大きさ、同じ品質のものをいかに安定供給するか、
という市場原理がそこには働いています。
7~9で、見てきた杉の品種の多さと品種のバラツキが、
価格形成において、これまで不利な状況を作り出してきたのです。
14.樹齢と材齢
樹齢以上に材齢を重ねられる。
関ケ原から生き続ける社木
樹齢400年のスギ(南小国町)
15.伝統木構法は木づかいの王道
樹齢以上に材齢を重ねられる。
伝統木構法と
在来工法が違うってホント?
→「職人がつくる木の家ネット」
「NPO伝統木構造の会」
16.鉄と木 鉄と木を一緒に使うと・・・
「そんなことをしたら
ヒノキが泣きよります。」(西岡常一)
耐久性といっても、私は五十年、百年先を問題にしているのではない。木だけなら千年もつものを、鉄を使って八百年、五百年に減ずることはないではないか。
≪法輪寺三重塔再建の際、竹島博士の補強に
鉄(釘)を使いたいという考えに対して。≫
17.近代建築巨匠の終の棲家
『 近代建築巨匠の終の棲家はなぜこの形(茅葺民家)になったのか?』
2007年、日本民家再生協会の九州民家塾で、池田武邦先生の自邸「邦久庵」にお邪魔しました。
池田先生は、(株)日本設計の創始者。
代表作は、霞が関ビル(超高層)、筑波学術研究都市、長崎オランダ村ハウステンボスなど。
まさに、近代建築の先頭を歩いてこられた巨匠です。
そんな先生の終の棲家は、伝統木造の「茅葺屋根」。
「なぜこの形になったのか」話していただきました。
*********************
なぜこの形になったのか?
それは、一言で言うならば「感性を取り戻す」ため。
この家にあるのは、
波の音、鳥の鳴き声、虫の声。
それから風の音、塩の満ち引き、月齢。
若かりしときは、近代化すれば、合理化していけば、
世の中は良くなり、豊かになり、人間にとっていいことばかりだ、
と思ってやってきた。
ところが、その成長には限界があることを公害問題で知る。
たとえばDDT。
スイスの科学者パウル・ヘルマン・ミュラーはDDTにてノーベル賞を受賞した。
その後、レイチェル・カーソン「沈黙の春」で農薬問題が告発されDDTは使用禁止となる。
近代化の世の中は、急激に上昇カーブを描き、そしてダメになる。
ローマクラブの「成長の限界」は、それを示唆している。
近代文明を享受すると、感性が鈍る。
そして、身の危険を感じなくなってしまう。
文明とは遠心力。文化とは求心力。
文明の良し悪しを心得ながら、今は文化を目覚めさせるとき。
文化の掘り起こしを今やらなければ、伝承が途切れてしまう。
足るを知ると同時に、精神的なものにウェイトを置く世の中にしたい。
*********************
ちなみに文化と文明の定義を、司馬遼太郎は「アメリカ素描」こう表現しています。
「文明は
『たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの』
をさすのに対し、
文化はむしろ不合理なものであり、
特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、
他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。」
18.孟母三遷の教えと木の住まい
「居は気を移す」
(孟母三遷の教え)
・「人は住まいをつくり、
住まいが人をつくる。」
(W.チャーチル)
・「人は住いをつくり
住いはそこに住む
人の心をつくる」
(中村家住宅・沖縄市)
19.眠れる杉の真価を探る
19-(1)古建築からのヒント
■スギなら七百年、八百年、
マツなら四、五百年はもつ。
ヒノキは千年以上。
■神尾家住宅 (山国町・大分県)
・木材が貴重なものだったことを推し量ることができる。
(松は多く使われているが、檜は無く、杉は
柱などに微量使用。長押は芯持ち節有り。)
・竹の使い方が実に洗練されている。
水前寺公園
古今伝授の間
400年経た杉柱
19-(2)杉皮葺き屋根
■杉皮葺き屋根
(日田・玖珠・うきは)
玖珠町の杉皮葺き民家
うきは市浮羽町新川・田籠地区
杉皮葺き茶室の屋根より
(うきは市吉井町)
19-(3)漆塗りで使う
■杉板を漆塗りで使う(安藤邦廣漆塗り
19-(4)杉でつくる社寺
■杉でつくる社寺
出雲大社・拝殿
出雲大社本殿・心御柱
三柱神社(柳川市)
20.森づくりは木を使うことから考える
20-(1)地下資源の可採年数表
20-(2)森林に対する期待度の推移
●地下資源を大切に使う為にも
再生産可能な資源「木材」を
できるだけ使わなければ・・・
■森とは「盛り上がる」
=「天然林」=「木」
■林とは「生やし」
=「人工林」=「樹」
・木には伐っていい木といけない木がある。
「5%の伐ってはいけない木と95%の伐ってもいい木を一緒に
議論するから話がおかしくなる」 (オーク・ヴィレッジ / 稲本 正)
「木と共に喜寿を迎え」(中本利夫著)より
20-(3)緑の砂漠(放置林)
■緑の砂漠(放置林)
・地球環境に役立つ森は
奥山の天然林なのか?
・人工林や雑木林は
水を蓄える力が弱いのか?
・人工林は生物の多様性を
守ることはできないのか?
・木を伐らない森が「本来の森」なのだろうか?
・照葉樹林帯に照葉樹を植えることが
「本物の森」づくりなのだろうか
29.日田杉の歴史年表
500年前から近代までの日田林業史年表 (H21年8月9日作成)
1491 | 延徳3年 | 津江城主信安が中津江村宮園の梅野神社境内に杉を植林(社殿再建の際) |
1681 | 天和年間 | 相良家(隈町、現在の川原町)が竹木旅出商売を始める。(竹、雑木が中心) |
~1683 | 五代将軍 | 相良良吉三郎と申す者、竹ばかり筏に組みて筑後川筋へ乗り下し商売を始め、 |
綱吉の頃 | そのころ迄は雑木のみにて杉の木はしかと無之、二代目九郎兵衛より | |
竹筏に雑木、杉なども少々あて組み交えて下し、次第に商売手広く相成し。 | ||
1688 | 元禄年間 | 英彦山神社参道の両側に修験者が杉のさし付を行う。 |
~1703 | ||
1717 | 享保2年 | 豊後国日田郡鎌手村明細帳では・・・ |
庄屋山九ヶ所(小竹藪七ヶ所、雑木山一ヶ所、雑木、柴山一ヶ所) | ||
百姓山三五ヶ所(小竹藪十三ヶ所、大竹藪ニヶ所、中竹藪三ヶ所、 | ||
なら竹藪一ヶ所、かし竹藪七ヶ所、雑木山七ヶ所、小松山ニヶ所)とある。 | ||
天然の雑木山、小松山、柴山か竹藪がほとんどであったことが覗われる。 | ||
幕府御林奉行より各代官に対して | ||
「川辺通え御林其外百姓持山共に伐り払い跡地は | ||
田畑を開いてはいけない、御林となるよう心掛けよ」 | ||
と山林の保護を奨励している。 | ||
1716 | 享保元年 | 光岡(てるおか)村の者、肥後より杉のさし木造林の方法を |
伝授されて以来杉のさし木造林が始まる、とされる。 | ||
英彦山や高良山に参詣した日田の先人たちが、物珍しさから | ||
杉の枝や自然生えの苗を採取して持ち帰って屋敷や畑に | ||
さしたり植えたりしたことが口碑として伝えられるが、 | ||
それが日田における造林の始まりともいわれる。 | ||
1734 | 享保19 | 「入江村の藤六、同村甚兵衛兄弟三人を竹田村に呼んで |
八代将軍 | 日向国奈須山(現椎葉村)に備前国牛窓五郎左衛門 | |
吉宗の頃 | という者が大勢の山子を召し連れて下り居候を聞き伝え、 | |
右三人を木方日雇稼ぎとして日向にやり、三年ほど逗留、 | ||
稼いでいる内に杉指穂のしかたは申すにおよばず、 | ||
材木根伐り、リンカケ、山出の方法、山方で用いている | ||
諸道具鳶口などにいたるまで覚えて持ち帰り山方日雇稼ぎ | ||
の用にたてた」と隈町(川原町)相良家の記録にある。 | ||
時の代官岡田庄太夫源俊雄は牛窓五郎左衛門を奈須山開発のために招き、 | ||
藤六らをこれに従わしめ日向に派遣した、とも伝えられる。 | ||
1750 | 寛延3年 | 日田郡中津江村九蔵付近に一万本ばかりのさし木があり。 |
1764 | 明和元年 | 幕府御林奉行より「差杉仕様御達」を出し、杉のさし木を督励している。 |
1768 | 明和5年 | 以後、月隈城にも代官によって杉のさし木が行われる。 |
1769 | 明和6年 | 「御林植添並株場空地苗木植付、差木其他差仕様御達書」出される。 |
1772 | 安永元年 | 上津江村尾ノ岳に山伏がさした杉が現れる。 |
1775 | 安永4年 | 徳川幕府、義務造林の制度設ける。杉造林成績調査の復命を要求。 |
1781 | 天明 | 山の中腹以下の「ソバ野」と称する焼畑、切替畑の間や |
~1789 | ~寛政 | 高地の広葉樹林の間に杉林が点々と見られるようになる。 |
このころの杉造林は農家のあまった労力を利用する程度。 | ||
1790 | 寛政2年 | 杉のさし木による団地造林が増え、前津江村千蔵木では |
伊勢参宮をした者が、かの地の杉の美林を見て帰り、 | ||
さし穂したとも伝えられる。 | ||
森春樹(1771生まれ)著「亀山抄」には・・・ | ||
栂の木という物、百年先には、多くて杉、少かりし也、鏡坂の左右より泉の上、 | ||
護岸寺山辺すべて栂林なりしといえるは、実なるべし、今も極く古き家蔵に | ||
栂材を用いし有、杉は却って稀なり、今は其木絶えてなく、津江山などには | ||
其樹の生たるを見ること不叶。」 | ||
この頃までの民家は、天然林の松材と広葉樹とで建てられていたものと思われる。 | ||
1817 | 文化14 | 名代官、塩谷大四郎正義は |
「林ある村ははやしよく仕立つべし、杉はさし木をよしとなす、 | ||
土地見立次第油断なくさし立つべし、家作の用にも立つ」と領民に布令。 | ||
杉のさし木造林を奨励した。 | ||
1822 | 文政5年 | 以降、日田地方の民家に杉材が用いられるようになる。 |
それまではもっぱら天然林の松材と広葉樹とで建てられていた。 | ||
木材需要の少なかった日田地方では、家作の用に立ったが、 | ||
それを販売し、その代金によって食料を購入し得るものではなかった。 | ||
1825 | 文政8年 | 三隈川通船が開始される。舟筏による材木の輸送量が増加した。 |
森林の開発が進むとともに材価もようやく上がり、植林を刺激し、 | ||
次第に植林面積も増加した。 | ||
1869 | 明治2年 | 藩籍奉還 |
1872 | 明治5年 | 土地永代売買禁止を解除。 |
1873 | 明治6年 | 地租改正のため土地官民有区分を断行。旧幕府諸藩に命じ、その御林山を |
録上させ、これを新政府の所有に帰属し官林としたが、 | ||
日田地方の林野のほとんど(95%)は民有地と決定される。 | ||
西南戦争により熊本市街地が火災にあう。復興材の需要が増大し多量の日田材が | ||
使用される。価格も高騰し利益も大きかったため、政治の改革で中断状態にあった | ||
杉の挿し木造林が再開されるようになる。 | ||
1887 | 明治20 | 頃、材木商の奥地への進出が目立つようになった。其頃は日田地方の |
~1896 | 奥地では立木は搬出の便も悪く焼畑のじゃま物にすぎなかったので、 | |
松、栗、欅、等の良材も只同然の価格で取引された。」(日田林業技術史) | ||
資本主義経済の発達により都市部が形成され、木材需要が急増。 | ||
さらに朝鮮に向けて大量のバラック材が出荷されるなど、 | ||
木材需要が急激に高まり、杉材の価格が上昇する。 | ||
それに合わせるかのように、日田地方では爆発的な植林ブームが起きた。 | ||
明治26年の日田郡内で86町歩、55,000本の杉造林が行われた。 | ||
毎年日田郡内では150町歩の植林が行われ、 | ||
杉の人工林比率は25年に20%となる。 | ||
1897 | 明治30年 | 「森林法」が制定。植林事業を奨励。保安林の強化にも乗り出した。 |
~1906 | 植栽方法は、山指しに代わって「近年植林事業ノ発達ト同時ニ、多ク吉野杉苗ヲ | |
購入シテ盛ンニ造林ニ勉メ」「郡中至ル所杉・扁柏等ノ大木ヲ見ルニ至ッタ」とある。 | ||
つまり、実生苗の養成技術が広がり、床ざし苗の養成法も改善されるなど、 | ||
技術面の進歩も見られたために面積の広い造林も可能となった。 | ||
この頃の毎年の伐採面積は6町歩、それに対し植栽面積は200町歩。 | ||
植栽本数120万本。しかしこの頃の日田ではまだ陸運の発達が見られず、 | ||
材木竹の長距離運送はもっぱら筏による水運であった。 | ||
道路の整備に合わせて、荷馬車が登場する。このことによって、木材や木炭、 | ||
椎茸などの搬出が容易になり、奥地でも天然林が伐採されるようになる。 | ||
伐採跡地には杉の植林がなされて一層造林が進むことになる。 | ||
1899 | 明治33年 | 日田水電株式会社が設立。翌年電力の供給を開始。(水力発電) |
1901 | 明治35年 | 電力供給を受けて、日田に相良製材所が設立される。 |
明治37 | 日露戦争により国内でも木材の需要は一挙に高まり、 | |
~38年 | 全国各地で製材工場の建設が相次いだ。 | |
動力も水力中心から石油、蒸気、電力と多様化して普及していく。 | ||
ただ、多くの製材所はまだ手挽き製材が主流であり、山床製材も活発に行われた。 | ||
明治末期 | 日田地区の木材伐採量に占める杉材の割合は74%。 | |
植林される品種も従来のヤブクグリ一辺倒から、五和村美春原ではウラセバルが | ||
植えられるなど、土地に適した品種が選ばれる傾向が出てくる。 | ||
参考資料
日田木材協同組合百年史、日田林業の歩み、日田市史、日田林業技術史
作成:杉岡世邦