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2009年 4月 15日

「虔十公園林」(宮沢賢治)と「杉」

カテゴリー 杉の文化研究所

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「杉の文化研究所」というカテゴリーをつくってふた月近くなりました。
ひと月以上前になりますが、このブログにいつもあたたかいコメントを
寄せてくださる「たにむら」さんより、このようなメールをいただきました。
 
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ご存知かもしれませんが、
宮沢賢治の童話にも杉苗を植える話があります。(虔十公園林)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4410_26676.html

この話を知ったのは、ますむら・ひろし氏のイーハトーブ乱入記です。

ますむら氏は、この話について
「宮沢賢治は、現実の学校教育と<激突>していたのだ」
と、書いています。
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私はそのとき初めて、虔十公園林(けんじうこうえんりん)を読みました。
短い童話なのでぜひ読んで頂きたいのですが、内容を要約しますと・・・
   
「虔十」は今で言えば知的障害のある人で、周囲の人から馬鹿にされたりからかわれたりしていました。
ところがある時、なにを思ってか野原に杉の苗を植えます。すると後年、そこはすばらしい杉林となって、
町のみんなの心のよりどころとなったのでした、
 
というようなお話です。
宮沢賢治は、本当の「知性」そして「賢さ」とは何か、という主題を
生涯にわたって何度も作品の中で追求したように思います。
それは、「雨ニモマケズ」の「デクノボー」であったり、
自分の理想郷をトルストイの「イワンの馬鹿」を捩ってイヴァン王国と名付けたり、
童話「風の又三郎」では「最も愚鈍なるもの最も賢きものなり」と表現したり。
そして、本当の知性とはいったい何か、という答えを
常識的な「賢さ」の対極の中に見出そうとしたと思えるのです。
  
この「虔十公園林」という童話も、同じテーマを扱った作品と言えます。
杉を植えた虔十は皆から馬鹿にされるも、そこにこそ知性があった、
と描かれているように思います。
 
「あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。

  たゞどこまでも十力の作用は不思議です。」
 
ここでいう「十力」とは、「仏に特有とされる十種の智力」のことでしょう。
人間には愚かと見えることも、仏の超越的な知性から見れば、
そのほんとうの意義が洞察されるということです。
 
宮沢賢治は、時に自分の署名を「Kenjü」と綴っていたらしいのですが、
「別名」を表記するに際して、「ケン」という音に、
「虔=つつしむ」または「謙=へりくだる」という字を当てていたようです。
つまり、主人公の名「虔十」(Kenjü)は、自分=「賢治」(ケンジュウ)の分身であり、
「虔=つつしむ」と「十力=十種の智力」を合わせたものだと考えられます。
そして、真の知性とは「虔=つつしむ」という生き方の中にこそ宿るのだ、
ということを名前の二文字に込めたのであろうと思うのです。
 
この童話の味わい深さに感動させられると共に、
真の「知性」「かしこさ」を象徴する題材として「杉の植林」が取り上げられたことを、
私は大変嬉しく、また心強く思いました。
「杉の真価を探る」ため、さらに学んでゆきたいと思います。
 
たにむらさん、ご紹介していただきありがとうごいざました。

(なお、今回の記事は、HP宮澤賢治の詩の世界を参考にさせていただきました。)

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